看脚下
今月の特集は「必ず「いいこと」はやってくる!幸せが舞い込むヒント」という特集であります。
私が連載している「心に禅語をしのばせてー生きるための禅の言葉19」では、「看脚下」という禅語を取り上げています。
「看脚下」というのは、脚下を看よ、足もとをしかと見よという意味であります。
佐藤一斎の『言志晩録』に「一灯を提げて暗夜を行く。暗夜を憂うること勿れ。只一燈を頼め」という言葉があります。
一つの灯火を掲げて暗い道を歩いているときに、暗い夜だからといって不安になることはない、その持っている一つの灯火を頼りに歩めという意味であります。
お釈迦さまやキリストや孔子というようすぐれた聖賢の言葉や禅の言葉などを頼りにして暗い道を歩いてゆくのだということであります。
確かにこの通りで、混迷する世の中を生きてゆくには頼りとすべき灯火が必要です。
しかし、この灯火が消えたらどうするのかというのが、禅の問題でもあります。
中国の宋代に五祖法演(?ー一一〇四)という禅僧がいました。
当時衰退しかけていた臨済宗の教えを再興したので、「臨済中興の祖」と崇められている方です。
それほどの禅僧でありながら、実は経歴がよく分かっていません。
生年が不明ですが、八十余歳まで生きておられたというのであります。
出家したのが三十五歳だと、伝記に書かれています。
それ以前の記録は無いのです。
当時の三十五歳というとかなりの高年齢でありますが、いろんな人生経験をした上で修行された方であります。
それだけに、残された言葉には奥深いものがあるものです。
ある時に三人の弟子と共に夜、話していて、帰りに夜道を行こうとすると、行灯か提灯の灯が消えてしまいました。
今日のように、街灯のある時代ではありません。
月でも出ていなければ、提灯でも持っていないと真っ暗闇で何も見えなくて歩けないのであります。
都会では、真っ暗闇というのが無くなっているように感じます。
そんな真っ暗闇になったところで、法演は三人の弟子に、それぞれ一句を言えと迫りました。
禅の問答というのは、いつ何時始まるのかわからないものです。
それだけに日常いつも油断なく暮らしているのであります。
先ず一番に、後に佛鑑禅師と称せられる慧勤は、「彩鳳、丹霄に舞う」と答えました。
「彩鳳」は、五色の美しい鳳凰のことです。
「丹霄」は、赤く染まった空であります。
「美しい鳳が彩雲ただよう天に舞う」様子をいいます。
目出度い言葉として、今では慶事などにも用いられています。
二番目には、後に佛眼禅師と称せられる清遠は、「鉄蛇、古路に横たう」と答えました。
鉄の蛇が、誰も通らないような古い道に横たわっているという意味です。
鉄は黒いという意味がありますので、真っ黒な蛇が人も通らぬ路に潜んでいるというのですから、なにが潜んでいるか分からないことを言います。
そして、最後には、後に法演の仏法を受け継いで、『碧巖録』を編纂する佛果禅師こと、圜悟克勤が、一言「脚下を看よ」と答えたのでした。
それに対して法演は、「吾が宗を滅するは、克勤のみ」と言われました。
言葉通り受け止めると、自分の教えを滅するのは、克勤だけだということになりますが、これは禅家独特の表現であって、自分の教えを真に継承してゆくのは、克勤だけだと、克勤を大いに肯った言葉なのであります。
そこで、古来この問答は、最後の圜悟克勤の「脚下を看よ」の一言こそ、法演の真意にかなうものだとして、解説されてきました。
前の二人の答えについては、あまり穿鑿されていないように思われます。
しかしながら、佛鑑禅師も佛眼禅師も、ともに名を成した禅僧であるので、その答えもまた十分に評価すべきでありましょう
かつて目黒の円融寺の阿純章さんと対談して本を出したことがあります。
『生きるための禅語』という致知出版社の対談本であります。
そのなかで阿さんが、実に鋭く丁寧にこの二人の言葉を解説してくれていました。
引用してみます。
阿さんは「この二人の答えは素晴らしいと私は思います」と述べたうえで、
「最初の答えは、極彩色の中に極彩色のものがある。
人生は真っ暗闇で先はどうなるかわからないけれども、極彩色の人生というものがあって、その中を極彩色の存在が歩いて行くのだから、先は見えなくとも自信を持って一歩一歩進んでいけばいいじゃないかということです。」
と解釈されていました。
「超ポジティブな考え方だ」と言っていました。
更に「それに対して仏眼のほうは超ネガティブですね。
すべてが不幸、すべてが苦しみだというわけですから。」というのです。
「仏眼は「暗闇の中にいて先が見えないのだから、不幸だということはあまり考えずに不幸の中を生きていこうじゃないか」と言っているわけですね」というわけであります。
圜悟の看脚下を阿さんは、
「圓悟克勤は「そんなきれいな言葉で飾って生きるとはどういうことなのか。観念的なことを言わずに、ただ脚下を見ていればいいじゃないか」と言ったわけですね」と解説してくださっていました。
最初の佛鑑禅師の答えた「彩鳳、丹霄に舞う」とは、美しいが上にも美しい、きらびやかな世界です。
頼りとしていた灯りが消えて、どうしようかという時に、実際にあるかどうか分からないにしても、輝かしい未来を心に思い描くことは、決して悪いことではありません。
どうしたらい良いか分からずに落ち込んでいたならば、血湧き肉躍るような感動の物語でも読んで、自分の心を鼓舞することも必要であります。
しかし、高い理想ばかりを思っていたのでは、足下が危ういものです。
これから先には、何が起こるか分からない、これから歩む道には何が潜んでいるか分からないと、慎重に歩を進めることも必要です。
そのように、前の二人の禅僧の言葉を踏まえた上で、圜悟克勤の「脚下を看よ」の一語を味わってみましょう。
頼りとする灯火を失ったら、まずは落ち込んでいないで、高い理想に心躍らせましょう。
すぐれた先賢の教えを学び、実在の方の成功談を読んで心を鼓舞することです。
次に、現実は何が起こるか分からない、慎重にゆかねばならないと注意します。
PHPにも、「先行きの見えない暗闇の中でどうするのか、希望を失わないようにすることも大切でありましょう、最悪の状況を想定することも必要でしょう。しかし、大事なことは足下を見ることです。自分は今どういう状況にあるのか、しっかりと足下を見つめて、一歩一歩を歩んでゆくことが最も肝要であります。」
と書いたのでした。
横田南嶺